昭和51年10月11日 朝の御理解
御理解 第75節
「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があって、それぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは、神が見ておるぞ。」
心で人を殺すと心で人を傷つけると。矢張り是は天地の法則に照らし合わせた時に、それは矢張り罪になると言う事を感じますですね。人間の作った法則に従わないと矢張りそれぞれのお仕置きやら、罪が生じて参ります様に。天地の法則に従わないと矢張り神が見ておるぞと仰る事は。神様が見通し聴き通し思うておる事言うておる事行うておる事。だからその行いがいうておる事が、又は言うておる事が神様の機感にかなう。
心にかなう時に天地の道理に合うた心の状態であったり、行き方であったりするから、おかげを頂けると言う事が言えます。ですからこの人を殺すと言う事は、まぁいうならばおかげを殺すと言う事になるのです。おかげは降るようにそれこそ、まんべんなく世界中の氏子におかげがやってあるという。もうそれこそ誰にでも、一様なおかげがその降る雨のようにあっておるんです。それを頂きとめる心がですね。いわゆる人を殺すというそれの反対の事になる訳です。
人の心が傷ついておられる。それを癒してあげる働き。もう半死半生の状態にあるのを、助けてあげれる働き。ですから心で傷つけたり殺したりする事が、神の機感にかなわぬ。それがおかげを傷つけおかげを殺す事になるのですから。だから信心とはその反対の事を、私どもが身につけて行くと言う事なんであります。ですから何時も有難い事が思われておる心の状態を願わなければならない。
そこでほんならそういう、有難い神様か仏様かという様な心の状態をです、頂き続けたいと思うてもいわゆる、和賀心の鬼が、我が身を責めると仰せられるように。自分でいうならば不安であったり、心配であったりいらいらしたりするのは、心の鬼が責めたり又は心の鬼に、さいなまれておる様子ですから。そういう心の鬼を取り除く事の精進。ここでおかげを頂きます様にお取次を頂く。御理解を頂いて不安である心配である事が、まぁすっきりと安心に切り替えられる。
先日ある方が私がもう、何時もここ八時半まで御用させて貰うけれど。もうやんがて九時頃まで、ここで御用をさせてもらっとった。そん時夫婦で参ってきた方達が、もう日々親先生はもう下がっておられると思うておったのに、そこへ来た途端に私が座っとったから。もここに走ってくるようにして見えて、おかげ頂きました。もうそれだけでおかげ頂いたんです。もう不安で心配でたまらなかった。やぁもうとにかく親先生が、ご結界におられる間にと思うて来よったけれども。
もう時間が八時半過ぎたから親先生はおられなかった。いやもうおられんだろうと思って来ておった。それがまぁだこけ座っとる。いうならば神様が私ども夫婦を、待っとって下さった気がするらしいんですね。おかげ頂きました。もうその一言であとのおかげが、それこそスムーズに現れておると言う事実です。皆さんもそうですね。悩み心配お取次を頂く。もうお取次を頂いての事だからと、安心が生まれる。だから次のおかげになって行くのです。だからこれはです。
私どもの心の中に責めたり、さいなんだりする心の状態がありましても、お取次のお徳の働きによっておかげが受けられるのです。だから本当のおかげはその自分の心の中にある、自分をさいなんでおるものを取り除かせて頂くと言う事が本当なんです。神を信ずるというても矢張り、神様に信じられる私どもにならせて頂くのが信心です。段々信心の稽古が出来て、神様の働きを段々信ずる事が出来るようになる。神様の御働きを信ずる事が出来るようになる。
それを最近端的に自分の心の状態を、おかげに導いて行く生き方が、いわゆる寛大の寛の字です。昨日特別奉修員の方達の御祈念が終わってから、お話をさせて貰う訳ですけれども。昨日、北野の秋山さんが、その御祈念前にお届けをしておられました。本当におかげを頂いてまぁ他人様には、本当に心の状態が何時も平生で、有難い心で接する事が出来るけれども。ひとたび家に帰ってきてそれが、息子であったり主人であったりすると、いわゆるむき出しのものが出てくる。
主人にでもああはいかんこうはいかんと指図する様な。又は言うてきた事に反発をする様な。また子供達の場合であってもちょっとした、不調法があるとあんたが日頃言う事を聞かんから、こう言う事になるんだと、こう責める心が起きてくる。してみるとまぁだ子供を責めたり、主人に反発をしたりする心があると言う事は、まぁだほんなもんじゃないと言う事に気づかせて頂いて、最近頂いておる寛の字を思わせて頂いたら。それが言わんで済むようになった。
今まで他人様には言わん。いわゆる今日の御理解で言うなら、傷つけたり殺したりするような事は、おかげで言わんで済むようになった。ところが帰った途端に主人の心を傷つけ、場合には子供の心を真っ暗にする様な事を言うておった自分が。これは自分が頂いておるものは、本当なものじゃないと気付かせて頂いて、おかげを頂いておるというのです。寛大の寛という字はう冠に自然、いわゆる草冠が書いて見るとあります。これが寛大の寛です。広いとも言います。
だから広い寛大なおかげを受けるためには、私どもも矢張り広く豊かに大きくならなければいけないと言う事です。私が善導寺の原さんの所に、書いて差し上げておる色紙の中に。私は豊かな心の世界に住んでおるから。また豊かなものにも金にも恵まれておるという意味の事が書いてあります。私は豊かな心の世界に住んでおるから、豊かなものにも、金にも恵まれておるというのです。その豊かな心を目指す。だから豊かになろうとして、なれるものではない。
秋山さんではないですけれども。確かに信心をさせて頂いて、お得意さんとか、近所隣りにはです。成程秋山さん信心しなさるけん違う、と言われるくらいなものを、示して表して行く事も出来るのだけれども。ひとたび家に帰っ、主人の顔を見る、子供、言うなら、不始末を見たりすると、それいっぺん傷つけたり殺した、反発したりするような自分、気付かせて頂いて、いわゆる自分のもの、本当なものでない事に気付いたというのである。あんな人がありますよね。
そ外前はとても良いけれども、家に帰った途端仏頂面してから、当たり散らかすと言った様な人が。これはやっぱほんなもんじゃない。又それの反対の人もあるです。外ではもうそうにゃもう、がんがつ言う人がね。家になったらもうほんな猫んごとなる人があるです。内前がよか外前が悪かち言うけん。だからどちらにしても、本当なもんじゃない証拠です。だから本当なもんじゃないという、私は自分をまずは発見する事です。そして本当なものになろうと精進する事です。
そこに神様を信じれれるようになる。いわゆるう冠というのは、宇宙の宇であります。天地ですその天地が草冠というのは、自然と言う事であります。天地の親神様が自然の中に、様々な問題とか痛い痒い事に至るまで、私の前にいわば現わして見せて下さる。それをね神の働きと見るというのです。自分がどうしてそんな立場に立たなきゃならんか。自分がどうしてこんな痛い思いをしなければならんかという頂き方ではなくて。それを神様が求め給う私に対する、神様の御働きと見るのです。
神の働きとみるのです。もう先生この寛の字を頂いて、この御理解を頂いて以来です。子供であろうが主人であろうがね。先日からも子供の車で、お参りをさせて貰いよったら、途中で油が切れてしもうた。そらもう中途半端の所じゃからどうにも。今までの私でしたら、もう本当あんたがちゃんと、日頃しとかんけんこげな事になると、言うたじゃろうけれども。これもおかげじゃ誠治さんと、と言える自分が有難いというのです。そしてその次にはもう、実にシャープなおかげになっとるです。
椛目の宮崎さんところにやらせて頂いたら。宮崎さんがわざわざ車で、油を持ってきて下さった。そうして言われるんです。そういう頂き方が出来る自分自身が有難い。親先生、まんまんしゃんになるちゃ、こげなこっでしょうかと言われました。まんまんしゃんちゃ分かるでしょうね。ここ辺では神様の事を、まんまんしゃんち言います。本当に自分で、自分の心が、神様に向こうて行きよる。
なって行きよる。自分が拝みたい心が生まれてくるんです。こういう心でですから、傷つける事もなからなければ、勿論殺す様な事はありません。だからおかげになるのです。ほんなら如何に寛の字を頂いて、天地の親神様が自然の中に、私に下さるその働きを神様の御働きと頂きとめなければならないと話を聞いても。神様が信じられずしてはそれは、出来ない事です。
そらそうかもしれんばってん、やっぱ腹ん立つ時は腹ん立つと言う事になる訳です。秋山さんの場合は何十年の信心によって、神様の働きはいわば神様を信ずる心は、誰よりも強くなってきておるわけです。それでいて自分の心の中に、どうにもしようのないものがあって相すまんと気付かせて頂いて。そこを改めて行こうと精進する時に、自分の心が拝みたい様な心が生まれてくる。もうすでに神様を信ずるではない。神様から信じられる働きが、心の中に起きておるのです。
神様を信じ神様から信じられる働きが、この寛大の寛の字を以ってです。実際もう小さい出来事からどんなに大きな、目の前が真っ黒になる様な事柄であってもです。神の御働きであると、合掌して受けた時に心はリラックスするです。だから次にシャープなおかげになってくるです。ね。三、四日前に福岡から、まぁだここに今年の二月に、始めてお参りをしてきたという方。
久留米の稲垣さんの関係の方なんです。それがただその合楽で大黒様を、あそこでご神を入れて頂いた大黒様を拝んだら、お金に不自由せんと言った様な話を聞かれて、大黒様だけを求めに見えられたんです。夫婦でそして御理解をここで頂いておるうちに、ははぁここの大黒様というのは親先生の事だ。しかも親先生が言われるのは、所謂おかげは和賀心にありという、天地書付を示された。これはもう一遍お話を頂き直しに来にゃ行かんと言うので、その何日か後に奥さんが参ってきた。
もう大変な話を聞くと、悩みを持っておられるのです。お金は沢山あるらしいです。そん時、あのおかげの泉をあの沢山綴じてあるのを一冊買って、大祓信行の事から大祓いの事からそれを、一通り買わせて頂いて。私は感心しました事はそれ以来、大祓信行とこの御祈念をまだ一遍も欠かした事がないち言う。この頃ねここにお参りをしてこなくても、親先生が言われたように、大祓信行させて頂きますと御祈念しよるとね、目の前が真っ黒なるそうです。そしてそこからね、いろんなものが飛び出してくる。
いわゆる御神願なんです。だからそういう深刻な悩みを持っておられるから、矢張り神様へ向かう心も深刻なんです。私は思いました、本当女の一念というのの見本のような方だなと私は思いました。これは大体三角関係で悩んでおられる訳です。この頃からまぁそんなふうに癖の、あんまり良くないお方でしょうご主人が。先日からはあの紐の付いとるおなごに、関係が出来て、それからゆすられて一千万円取られました。だから金がなからにゃ出されもしません。
その金もですお父さんが払うてやりなさったそうです。そこで今度はその息子さんがね。俺に相談もせんなり一千万円も払うとと言うので、今度親子喧嘩になった訳です。そしたら姑お母さんというのが、今度はその嫁さんである、その方に対してです。あんたが主人の守が悪かから、こういう結果になると。愈々もう万字巴もう四つ巴になって、深刻な争いがあっておるという訳なんです。そこから救われたい、助かりたい。だから嫁さんは、もう泣きの涙である。
御神前に出てももうそれこそ泣き伏して、願わにゃならんと言った様な事である。自分にはなぁにも非がないと思うのに、主人がそういう風にいろんな関係を、他に作ってくる。それで親は嫁後が悪いから、息子があぁなるとこういう風に責められる。そん時参ってきてお届けをしておられましたが、本当に先生あのおかげの泉という、あの御本はもう確かに人を助けるご本です。
先日も一生懸命、その苦しい事をお願させて貰いよったら真っ暗になった。真っ暗になった所から蛙が、ぴょんぴょん飛び出してきた。御神願にはぁどう言う事じゃろうかと思うて、自分でそれをお伺いが出来んから、ちゃんとそのおかげの泉もお祭りするように、ちゃんと高い所に上げてあるそうです。それでその親先生が何時も言われる通りに、どうぞ折角御神願を頂いたけれども、訳が分かりませんから。
訳を分からせて下さいというて、開かせて頂いた所に、丁度蛙の出てくる御理解が出とった訳なんです。しかもそれにはね、以前ですかそんなご理解があった事があります。蛇の抜け殻とその蛙の御理解が出とった。はぁあたしが今不安で不安でたまらんでおるけれども。これはこの蛙が飛び出してきたけれども。これが蛇ならばこれで飲まれてしまうばってん。いわばこの抜け殻ですから。はぁこりゃ心配せんで良かばいねと思うたら、心が楽になったらやっぱおかげを頂きましたと言われるんです。
心が楽になる時におかげがあるです。その話を聞いて稲垣さんが、早速あの電話を掛けられて、今度の大祭の事やらなんやらを、どうでんお参りされるように電話を掛けられましたそうです。そしたらもう待っとったと言わんばかりに、自分が日頃色々頂いておる、その合楽にお参りせんけれども、いろんな体験を色々話された。その中にです先日もある悩みの事でです。神様に一生懸命御縋りさせて貰いよったら、それこそ真っ黒なった。そしてそこからね、あの花札ですね。
ろっぴゃっけんですか。花札の萩の絵の付いた。あれは何ち言うですかね。赤短黒短て言うですかね。あの萩の模様の花札が一枚、ふっと自分の神願に映ったち言う。はぁどう言う事じゃろうか分からん。それから御祈念終わってから、テレビをちょっとこうつけさせて頂いたら、大橋巨泉が花言葉の説明をしておる所であった。そしてあの萩の花はあれは、どういう花言葉か、皆さん知っておりますかというて、説明をしておるのが萩の花は、あれは、人を怨むと言う事ですと言うたという訳です。
もうびっくりしたち。もう神の声と聞かにゃおられない。そして自分がです主人を怨み、相手のおなごしを怨み、ね。姑親が私を、そういう風に言われる。姑親をもう恨むばっかりでおった自分が、はぁこげな事じゃ、おかげ頂かれんというお知らせだなと思うたら不思議ですね。神様から頂いてもうどんなにそれこそ恨みつらみがあったけれども。それを頂いた途端に何か胸がスーッとした様な心になったという話を、稲垣さんにされたそうです。だからね皆さんあの本当に日参り、夜参り例えしなくっても。
神様に一心発起貫く信心をさせて頂いたら。そしてそこに本気で、神様の教えを守り行じたらです。おかげは受けられると言う事が分かるですね。幾らお参りしたっちゃその、いわば大祓信行もしだごだ。勿論最近言われる所の心行も、いい加減にしておって、おかげの頂ける筈はありません。まぁその中から、今日の御理解を以ってするとです。例えば、そのいわゆる萩の花と言う事であります。
萩の花というのは人を怨むと言う事だ。怨む、こげな心では神様は、おかげ頂けんと言いよりなさるというのでです。自分の心の中から、人を怨むと言った様な心を、取り棄ててしまう。心の中に人を傷つけもしなければ、殺しもしない。いうならば有難い心が、そこに生まれてくるのです。私はありとあらゆるおかげを殺す。折角のおかげを水にしてしまう様な考え方やら、心の状態やらというのを、改めて行かなければならないと思います。人を殺すと言う事は。
これは勿論実際に殺せば、お上があってお仕置きにあうけれども。心で殺すのは神が見ておる。それこそ天知る地知る吾知るであります。それを自分自身が知っておるから、あの人はあんなにして心を傷つけた。心をいわば殺した。そういう心の状態がありますから。自分が自分は幸せになれまいと言った様な、又は不安やら焦燥やら心配やらが頂けるのです。それを一番端的におかげの頂けれるのが、お取次を頂くと言う事です。どういう心の状態であっても、ここにお参りをしてきた途端に心が楽になる。
そして任せる心が生まれてくる。だからおかげを頂くのです。同時にです秋山さんのお話じゃないですけれども。自分自身の信心が、本当のものでないと気付かせて頂いた所からです。本気でその事に取り組ませて頂くと言う事になる時に、神様を信ずる力を、長年の信心によって分かっておるけれども。神様から信じられる働きというものがなかった事を、最近体験してる。しかもはぁ神様から信じられると言う事は。言わんで済むと言う事は。責めんで済むと言う事は。
反発せんで済むと言う事は。その心の状態がです。それこそまんまんしゃんになって行きよると言う事は、こう言う事だろうかと、思うほどしの心が自分の心の中に頂けてくる。いわば殺すのではなく、反対、生かしていく働きが生まれてくる。殺す事も神様が見てござるなら、生かす事もなおさら、神様が見逃がしなさる筈がございません。私どもは矢張り、昨日の御理解一昨日辺りの御理解から、こう頂きますとです。人の悪口を言うてはならんと言われるが。
悪口ではない一つの自分の信心を高める。みんながおかげを頂くことのために、人の非をああ言う事では、おかげをうけられんと言った様な話を致しましたよね。中島の上滝さんの一家の生き方が、こういう私が一部始終の一つの問題を取り上げてその問題に絡んだお話を、皆さんに聞いて頂きましたよね。初めから最後まで。そしてそのお話の中に、この中、三つだけこんな事では、おかげが受けられん。神様がおかげを下さろうとしておっても、神様の方が回れ右をしなさるんだと。
ここの中に三つのいうなら、おかげの受けられない要素があるんだと、言う事を皆さんに聞いて頂きました。だからあのもし上滝さんが、一緒にお話頂いておったら。人の前であげなこつ言わんでん良かろう所へと言うて、腹かきなさるじゃろう。あの人の心をいわば傷つけたり、殺したりする事になるかも知れませんよね。けれどもそこにはね、そう言う事ではおかげの受けられない元が三つ分かった。
分かった所が上滝さんだけの事ではない、自分達の心の中にもあった事を、みんなが気付いて行った。自分がおかげの受けられない元があった事を、上滝さんの話によって分かった。私は昨日それをあの、大和さんから聞かせて頂いて、はぁ本当にびっくりしました。というのはね。あんたも言うこつは言うのち。その朝帰らせて頂いたげなら、丁度上滝さんがやってきたげな。それで今日はあんた。
あんたげん話じゃったばい。そら良かお話かと思うとった所が、もう一から十までおかげの受けられん、こげなこっじゃ上滝さんがおかげは受けられん。本当のおかげは受けられんと言う話ばかりでしたからね。それをきたんなしに話したというのです。そうら上滝さんが腹けえたろと、私は思いましたよ。私が言うならまだ具合よう言うばってん。あの人が大和さんが言われるとなら、あんまり話が上手じゃなかけんですね、ちった当たり障りがあり段せじゃっただろうかと、私は思うたです。
そしたら二、三時間したら上滝さん達が、親子四人連れでお礼に出て来ましたよ。私は、もう本当に驚きました。昨日も申しましたでしょう。上滝さんの事を皆さんが、おかげを頂くためにいうなら、悪口を言うたけれども。言うた後もう一生懸命後ろ祈念しよると言う事を言うたでしょう。その祈念が届いたんです。もう何と言うて良いやら、先生分かりませんち。これから本当のおかげの頂けれる。もう一家中でです。長男も婆しゃまも嫁後も、四人でお礼いわゆるお詫びの参拝でした。
だからそこが分かって今度頂くおかげが、ほんなもんたいねと言うて、まぁお話しました事でしたけれどもね。例えば自分達の心、あ今日は自分の不行き届きが、あの人を傷つけたという様な時がありましょうが。そういう時にはしっかり後ろから、いわゆる御祈念をしなければいけんです。そすとそれがおかげになってくるです。今日は人を殺すと言う事。心で殺すと言う事。又は傷つけたりする事がです。いかに神様の機感にかなわないか。神様は聞き通し見通しである。
しかも人を恨んだり傷つけたりすると言う事はです。これはね口には言わんでん、態度で傷つけたりする場合があるですよ。ほらもう自分が気に入らんと、障子をかちゃんと閉めてですね。こらこらちょいと待たんかと言いたいごたる人がありますよ時々。自分の思うようにならんとですね。もう態度でその示しよる訳です。腹が立っとるち言う事を。だからね本当私は昨日その皆さんに話した事でしたけれどもね。自分の心が暗くなったり、どうもいらいらしたり、腹の立ったりしよる時にはね。
そのままじっとそのまま鏡の前に座らんのち私が言うた。本当にもうえすかごたる顔しとる。そるばってん鏡の前に行くと、にこっち笑うてから鏡見るけん分からんとじゃ。本当ですよ。だから私ども人間ですから人をそのように傷つけるような事がありますけれども。傷つけたなと気付いたら、もう後を本気で改まってお詫びをする事。そこに自他ともに助かって行く。人を殺すと言う事はと言う事を。
今日はそういう心の状態。ありとあらゆる、神様の心にかなわない心を使うと言う事は、人を殺すと言う事と同時に、おかげを殺してしまうと言う事だと、悟らにゃいけません。そこでほんなら最近頂いている、愈々神様をいうなら信ずる力は、皆さんおかげを頂いて、段々出来てきたでしょう。は、神様ちゃやっぱござるばい。神様の働きとは素晴らしい事だと。だから神様から信じられる、私にならせて頂く精進が必要なんです。そこでそういう生き方を身につける生き方がです。
最近寛の字で行こうと言う事であります。もう間違いなしこら絶対そうなんですから。私の前に起きてくる、一切の事柄はどういう小さい事であっても、大きい事であっても、天地が、私どもに示して下さる、言うならばお言葉と頂いても良いのです。いうならば、神の働きとみるというのです。そこに寛の字が心の中に開けます。心が広くなります。心が楽になります。だからおかげも寛大なおかげに繋がるということが言えますですね。
どうぞ。